私が北海道へ来たのは2006年でした。当時の日本では、馬の循環器疾患に対する認知度は極めて低いものでした。なぜなら、『循環器疾患は珍しく、経験が得られないので診断が難しく、診断や治療をしても経済的価値を見いだせないもの。』と考えられていたからです。
それから十数年が経ち、北海道においては馬の循環器疾患が認知されはじめ、興味を持つ方が少しずつ増えてきている状況です。
循環器への興味
学生時代、宮崎大学の外科学教室に所属していました。担当の教官は 当時、日本獣医画像診断学会の会長をされていた 萩尾光美 先生 でした。
私が生まれた1980年前後からエコーの研究をなされ、日本の獣医学における心エコーのパイオニアの一人でした。パワーあふれるお方で、犬・猫・牛の診療を、外科・内科・画像診断問わず、すべてにおいて妥協を許さない先生で、手術は、整形・軟部外科・循環器外科と何でもこなされ、私にとっては圧倒的なカリスマでした。
心エコーが大好きな先生は、診療そっちのけで朝からずーっと心エコーを診られることもしばしば。
心エコー検査は、暗い部屋で行うので、動物を押さえている学生には 睡魔が…. なんてことも。
ある日、目を開けたまま寝ていた私は…. 目が覚めた瞬間に先生と目があいました。
怒られるかと思いきや
『みんな見てみろ? 目を皿のようにして見ているぞ! こんなに真剣に見るやつが他にいるか?』
なんと、先生の勘違いで褒められたことも ww
(後で先輩に 『お前寝てたよな。。』 と見事に見破られましたが)
そんなこんなで、学生時代に循環器に対する興味を持つようになりました。
当時、宮崎大学には馬の診療はほぼありませんでした。ですから、馬の診療の練習がしたかった私は、夜な夜な馬を大動物実習室の枠馬につないで、隠れて心エコーの練習をしていました。
今でこそ、病院にあるエコーの機械ってスマートで、パソコンみたいな小さなものですが、当時はそうではありません。記憶が定かではありませんが、おそらく
アロカのSSD5500 という機械だったと思います。
無茶苦茶重くて、段差のある場所を動かすのは大変な代物でした。でもとても高価な機械だったのだと思います。
大動物実習室は、階段を数段降りた場所にあるものだから、木の板でスロープをつくり、皆が帰った頃合いをみて深夜にこっそりと練習するのです。
多分22時ごろだったか?
ある日、いつもの様に練習をしていた時、実習室裏にあった靴箱をさわる音がしました。ヤバイ💦
息をひそめていたのですが、気配を感じたのか 中を覗く影 。。 なんと 萩尾先生でした。
忘れ物でも取りに来たのかもしれません。
『なんしよっとか!?』
(宮崎弁:なにしてるんだ?)
言葉に詰まりました。。。 今度こそ本当に怒られると覚悟しました。
しばらくして、先生は
『壊さんように戻しちょけよ。』
(宮崎弁:壊さないように戻しておきなさい)
そう言って、そのまま立ち去って行かれたのでした。
私の馬の循環器への情熱の芽が摘み取られることなく、その後も無事に育つことができたのは先生のおかげです。 本当にありがとうございました。
馬の循環器学の歴史
実は、馬は動物の中で最も古い循環器学の歴史を持っています。ヒトの心電図の基本となる‘心電図肢誘導法の正三角形模型’が発表されたのが1913年ですが、同年にはKahnらによって馬の心電図が報告されました。
現在ではスタンダードな検査となっている心エコー検査は、V.Reefらによって1970年代から始まりました。
2014年には、米国獣医内科学会(ACVIM)にて『馬における循環器疾患管理に対するコンセンサス』が発表されました。馬の循環器疾患における、診断・治療・予後などについて簡潔にまとめられており、今後はこれをもとに馬の一般循環器診療がすすめられるものと思われます。
一方、日本では2012年に畠添らが『日本の種雄馬の死亡原因に関する回顧的調査』にて、突然死した16頭中11頭が循環器疾患に起因していたことを報告しています。社台ホースクリニックにおいても、過去15年間で軽度から重度のものまで、のべ100頭を超える循環器疾患の診療履歴がありますが、潜在的(見つけられていない)心疾患は、まだまだあると考えています。
東京オリンピックや、引退馬リトレーニングの広がりは、馬事普及につながる素晴らしいものだと思います。普及に伴って高齢な乗用馬が増えると、循環器疾患に遭遇する頻度も当然増えるものと予想されます。馬に携わる人々が、馬の循環器疾患を理解しておくことは、これから更に大切になってくるでしょう。
心臓の構造と機能
赤矢印は
酸素化された血液(動脈血)
青矢印は
酸素が少ない血液(静脈血)
動物が生きるためには、体のすみずみまで酸素を運ばなければなりません。酸素は、血液中の赤血球内ヘモグロビンに充填され、動脈を通って全身に運ばれます。血液は、酸素を届けると同時に、細胞から排出された二酸化炭素を回収し、静脈から心臓に戻ります。心臓は、この血液の流れ(循環)を作り出すポンプの役割を担っています。
馬の心臓は胸の前方中央に位置し、両側から前肢に挟まれています。4つの部屋からなる筋肉(心筋)の塊で、中隔(ちゅうかく)と呼ばれる壁で右と左にわけられ、それぞれ弁によって心房(血液を受け取る部屋)と心室(血液を送り出す部屋)にわけられます。
全身をまわって酸素の少なくなった血液は、右心房へ戻ります。この血液は、右房室弁(三尖弁)を通過して右心室へと入り、右心室の収縮によって肺動脈弁 ➡ 肺動脈 ➡ 肺 へと押し出されます。肺ではガス交換が行われ、ヘモグロビンに酸素が充填されます(酸素化)。
酸素化された血液は、肺静脈を通って左心房へと流入し、左房室弁(僧帽弁)を通過して左心室へ進み、大動脈弁を通過して大動脈へと送られます。さらに、大動脈は動脈・細動脈・毛細血管へとつながり、酸素化された血液が臓器のすみずみまで行き渡ります。
心臓内の弁は、この血液の流れが一方通行になるように、各部屋の扉の役割をしています。扉のしまりが悪くなると、血液の逆流(閉鎖不全)が起こります。
馬は心臓の大きい動物で、特にサラブレッドは体重の約1%もあります(ヒトは約0.4%)。安静時の心拍数は30~40回/分と少ないですが、1回の収縮で心臓が送り出す血液量は800~900mlもあります。血液の量は、体重の約9%で、そのうちの約80%が血管内(500Kgの馬で約36ℓ)にとどまります。つまり、ほぼ全ての量の血液が1分間のうちに心臓を通過することになります。さらに、激しい運動の時には、1回拍出量は約1.5倍、心拍数は250回まで増加します。
このハードな仕事をスムーズにこなすために、指揮者の役割をする部位を『洞房結節(どうぼうけっせつ)』とよびます。洞房結節は右心房にあり、規則的に電気刺激を発生させることで心拍数を調整します。さらにこの電気刺激は、右心房と左心房を通過し、房室結節(ぼうしつけっせつ)を経て、プルキンエ線維とよばれる特殊な心筋細胞へと伝わることで心臓全体に伝達されます。
この複雑かつ最高級のエンジンが、馬の素晴らしい運動能力を支えているのです。
長くなったので、循環器疾患の症状など、つづきはまた今度。
Mahalo